ハマチ’s diary

思考の外部化

物と人

この世の中には沢山の“物”が溢れています。一般的にそれは無機物です。しかし、それらの多くは我々人間が手を加えて形成しています。精密機器、自動車、建物から芸術品まで、形と人から手を加えられた度合いに違いがあってもそれらは“物”として扱われます。

こんなことは小学生でもわかるでしょう。物に当たることがあっても人に当たることはなくなるのがその証拠です(物理的に)。

 

一方で近年のメディアにおけるスクープは悪い知らせであると考えます。テレビや新聞を見れば一目瞭然です。

政治や金融、国際や国際情勢等その規模は大小さまざまで、分野も多岐に渡ります。当然スクープの中には一個人にまつわるものがあります。

 

今回私が考えをまとめようと思ったのは

罪人とその人にまつわる“物”の消去

についてです。

 

特にそれはイメージが付きまとう商売に多いように思われます。

例えばメディアへの露出の多い芸能人Aがいるとします。Aは冠番組を持ち、役者としても活躍し、CMも数本抱えています。

ある日、Aがプライベートで働いた罪が明るみになります。すると起こるのは、冠番組、出演作品とCMの降板でしょう。なぜならイメージの悪い番組は視聴率が悪くなるし、商品のイメージが悪くなると売れないからです。損切りです。

 

こうして所謂“干された”状態になります。その規模は罪を犯す以前と以後のAへのイメージのギャップの大きさによって変化するように思われます。

小さければ数ヶ月後に復帰なんてこともありますが、大きいと復帰はなく、過去の作品の消去まで行われます。いなかったことにされるのです。市場に出回った物は残りますが、おそらく会社側は罪人をなんらかの形で罰したという事実が欲しいのでしょう。

 

この際Aが役者でも音楽家でも芸術家でもなんでもいいですが、過去の作品の価値は変わるのでしょうか?未発表の作品はどうなるのでしょうか?

 

ここで意見が分かれます。

 

・ひたすらに損切りする派

 

・広義の“物”として批評する派

 

商売を前提として考える場合は損切りを進めるべきと考えられます。

 

一方で人に手を加えられた度合いに関係なく“物”として考える場合は単純に“物”の良し悪しで判断するため、作者が罪人になろうが作品への評価は変わりません。むしろ保守に回ると考えられます。

 

我々消費者のあるべき考えは後者のはずです。

しかし、供給者は正反対の振る舞いを見せます。

 

ここから私をして消費者のあるべき考えを持たない消費者が大多数であることが示唆されます。

 

映画を見てあの俳優がかっこよかった、あの女優が可愛いかったといった感想しか湧かない連中です。

 

流行りのロックやpopsしか聞かない連中です。

 

美術鑑賞をしない連中です。

 

美味しくお酒を飲まない連中です。

 

私は私が見た景色を私の考えに昇華して私の人生としていきます。